太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

豊臣時代の埋甕(うめがめ)遺構

2月号から4月号にかけて紹介してきました船場一帯の調査において、備前焼の大甕を多数地中に埋めた特徴のある遺構が見つかっています。建物内に据えられたもので、道修町や平野町、高麗橋などの町屋の屋敷地や、平成27年4月号で紹介した大名屋敷でも見つかっています。

埋甕遺構は古代からありますが、中世と呼ばれる鎌倉時代から室町時代にかけて事例が多く見られます。大坂城では、豊臣時代に集中して見られ、豊臣時代の大坂を特徴付ける遺構ということができます(※1)。

今回は、埋甕遺構とそこで使われた高さ1mを超える備前焼大甕について紹介します。

町屋の埋甕遺構

道修町1丁目の魚市場跡の調査地点(図1-1)では、6個2列の甕が整然と並んで出土しました(写真1)。甕と甕の間には板を挟み、甕同士が直接触れて破損することを防いでいました。道修町の南側、平野町1丁目の調査(図1-2)では冬ノ陣の火災で焼け落ちた建物の中に、6個1列の甕と1基の桶が埋められているのが見つかっています。

写真1.道修町1丁目で見つかった埋甕

写真1.道修町1丁目で見つかった埋甕

(左側は甕を取り上げた痕跡)

図1.埋甕遺構の分布

図1.埋甕遺構の分布

また、江戸時代の魚市場が発見された高麗橋1丁目(図1-3)の豊臣時代の遺構面でも、8個1列以上の埋甕の痕跡が見つかっています。

さらに、江戸時代の薬種商の屋敷が発見された道修町1丁目(図1-4)の豊臣時代の遺構面では5軒発見された屋敷のうち、2軒の屋敷から埋甕遺構が見つかっています。このことから、すべての屋敷に備前焼大甕が備えられていたわけではないことがわかります。

武家屋敷の埋甕遺構

埋甕遺構は武家屋敷でも見つかっています。惣構内の高麗橋東詰で発見された大名屋敷内(図1-5)からは、大甕を15個埋めたと蔵と推定される建物が確認されています。据付の痕跡から、甕は長方形に掘り込まれた穴の縁に「コ」の字状に並べられていたようです。

またNHK大阪放送局と大阪歴史博物館の敷地(図1-8)で見つかった大名屋敷からは、8個2列の甕を据えた痕跡が確認されています。この遺構は豊臣時代前半の遺構でした。また大阪府庁別館の調査(図1-7)でも礎石建物内に掘り込まれた穴に4個2列の備前焼の埋甕とそれに接して1個の埋甕と1個の据付穴が確認されています。

このように、武家屋敷でも建物内に据えられた埋甕遺構があったことが明らかになっています。

写真2.復元された備前焼大甕

写真2.復元された備前焼大甕

埋甕遺構の用途

それでは、大坂で見つかる豊臣時代の埋甕遺構はどのように使われたのでしょうか。出土する埋甕遺構の甕は例外なく備前焼の大甕が使われています。他遺跡の事例では備前焼大甕を酒造の容器として使っていた例があるほか、天正13年(1585)に秀吉によって焼き討ちされた和歌山、根来寺坊院跡では全山で2100個を超える備前焼の大甕が貯蔵容器として使われ、用途の一つとして油の貯蔵容器と推定されていることが報告されています(※2)。

図2.調査地1から出土した備前焼大甕のヘラ書き文字

図2.調査地1から出土した備前焼大甕のヘラ書き文字

(中央「貳石入」は写真2の甕に記された文字)

船場の場合、酒造など製造に関る施設とは考えにくく、例えば酒や油など販売用の商品の貯蔵容器であった可能性が高いのではないかと考えています。一方、武家屋敷の場合は屋敷で使用する物資の貯蔵容器として使われたのではないかと考えられます。このように内容物については不明な部分も多いのですが、豊臣時代に備前焼の大甕が貯蔵容器として広く流通、使用されていたことは間違いありません。

大坂城の埋甕遺構はほとんど慶長19・20年(1614・15)の大坂冬ノ陣や夏ノ陣の火災によって焼け落ちた遺構として見つかります。しかし、その後再建された江戸時代(元和期以降)の大坂では、大甕を多数並べた遺構は見られなくなってきます。埋甕遺構が消えていくのは、備前焼大甕が担っていた用途が木製品の桶や樽に代わっていくことを示していると考えられます。豊臣時代から徳川時代への移行期は日常容器の変化の面でも大きな変革期に当たっていたようです。

埋甕に使われた備前焼大甕

道修町1丁目で見つかった埋甕の肩部には文字が刻まれた例があります(図2)。焼物の品質を示す「捻土(ひねりつち)」「上」や、容量を示す「貳石入(約360リットル)」「参石入」などです。大甕は備前焼の主要な商品の一つで、良質な粘土を用い堅牢に焼き上げられた大甕はこの時期の西日本を席巻しています。したがって思いもよらぬ場所で古い備前焼の大甕を見かけることがあります。

写真3.伏見稲荷大社参道に残る備前焼と銘文「慶長拾五年(花押)」

写真3.伏見稲荷大社参道に残る備前焼と銘文「慶長拾五年(花押)」

写真3は伏見稲荷山中の「薬力の滝」近くで偶然見かけた慶長15年(1610)の紀年のある大甕です。参道の脇に置かれており、水甕として使われていました。当初は山中の茶屋で使用されていたのではないかと考えられますが、年号を書いた大甕が珍しいこともあり、どのように運ばれ、稲荷山を登ってきたのか、色々と想いを馳せたものです。現在の大阪の街中でも少し古そうな唐津焼の大甕や信楽焼の甕などを見かけることがあります。機会があれば大阪で見つかる色々な焼物についても、その来歴にについて考えて見たいと思います。

※1:長岡京跡の調査で2棟の建物内から、74個の甕の据付穴が発見され、酒の醸造に関係する遺構と考えられています。また、奈良の西大寺旧境内では9世紀末頃に埋まった埋甕が発見され、寺院の食堂に伴う貯蔵施設と考えられています。
平安京や奈良町、広島県福山市草戸千軒町遺跡、宇治市街地跡などでは鎌倉時代から室町時代の埋甕が発見され、酒造などの用途が想定されています。

※2:本多元成2005「紀州根来と備前焼」『備前焼研究最前線』Ⅱ、備前市歴史民俗資料館紀要7

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