太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

大阪城に残る台地の痕跡

東内堀沿いに残る台地の痕跡

先日、ラジオを聴いていますと、偶然、大阪城のボランティアガイドの方がアナウンサーを案内しながら大阪城の見所を紹介して歩くという放送を聴くことがありました。何回かに分けて放送されたようでしたが、私が聴いた時は、青屋口から梅林横の南北の坂道を歩きながら、「この梅林のあたりは「市正曲輪(いちのかみくるわ)」と呼ばれ、豊臣時代に片桐且元(かたぎりかつもと)の屋敷があったところです。」とか、「この坂道は江戸時代に「雁木坂(がんぎざか)」といって、階段のあるとても傾斜が急な坂道で、これは上町台地の地形を表わしているんです。」という主旨の説明をされていたように思います。的確で分かり易い説明でした。

本コラムでも、前回、前々回と大阪城の地形に関る問題について書いてきましたが、今回は放送で説明されていた、大阪城に残る上町台地の痕跡について考えてみたいと思います。

ラジオで紹介されていた坂道を本丸東側の櫓台辺りから望みますと、南から北に向かって降る坂道の様子や、本丸と二の丸東側との高さの違いがよく分かります(写真1)。地形図に示された標高を見ますと、雁木坂を登りきったところで、24.1m、青屋門のところで10.7mですので、13.4mの高低差があります。

図1.現在の地形図(マップナビおおさか)と明治19年(1886)測量の地形図

図1.現在の地形図(マップナビおおさか)と明治19年(1886)測量の地形図

(○番号は写真番号を示す)

写真1.本丸から見た雁木坂

写真1.本丸から見た雁木坂

一方、二の丸側から本丸を望みますと、内堀から立ち上がる高石垣に圧倒されます。この本丸東側の石垣が国内随一の高さを誇る石垣です。

また、本丸中央部と北側にある山里丸との間に大きな段がつきます(写真2)。この段は、上町台地が北に向かって低くなる地形を利用して階段状に曲輪を造成した結果であることは先月号で見た通りで、ラジオでもボランティアガイドさんが説明をされていました。

写真2.本丸中央部と山里丸(手前)との段

写真2.本丸中央部と山里丸(手前)との段

東西方向の地形の痕跡

ところで、梅林西側の坂道や本丸中央部と山里丸との段差は、上町台地の南北方向の高低差を示すものですが、台地の東西方向の傾斜を示す地形をみてみましょう。

JR森ノ宮駅、あるいは地下鉄森ノ宮駅を降りて大阪城公園の噴水のある広場から玉造口に通じる園路に出ようとしますと、野外音楽堂の南を通って階段(図1-B)を上がるルートと、「市民の森」から東外堀の南側を通って玉造口に続く園路に出る二つのルートがあります(図1-A、写真3)。

いずれも急な階段を登らなくてはなりません。この二つの階段の間は鬱蒼とした森となっています。この辺りは、徳川期には算用曲輪(さんようくるわ)と呼ばれたところです。算用曲輪の由来は、豊臣期にこの一帯が大坂城に納められた年貢や金銀を計算する所であったからといわれています。

さて、地形を見る限り、この高低差は西から東に落ちる上町台地の傾斜を反映しているのではないかと考えられるのですが、この段差の形成には少し歴史的な背景があるようです。

野外音楽堂の豊臣期石垣と徳川期の盛土

図1に現在の地形図と明治19年(1886)測量の『大阪実測図』をほぼ同じ縮尺で掲載しています。明治19年の地図を見ますと、東外堀の南側に西から東に傾斜する幅広い自然地形を表現したと考えられる部分があります(算用曲輪の文字の右側)。

この丘陵のように表現されている地点は、現在ほとんど平地になり、野外音楽堂や園地となっています。明治41年(1909)測量の地図では既にこの高まりが削平されています。ところで、以前このコラムで野外音楽堂建設時に 豊臣期の三の丸の堀が見つかったことを紹介しています。平面的な位置関係を見ると、豊臣期の堀はこの丘陵のように表現される高まりの下から見つかっているのです。したがって、この地形は豊臣期の堀が埋められた以後、造成された地形なのです。

昭和56年(1981)、東外堀南側の階段部分の斜面(写真3)の位置が発掘調査されています。この時の調査では、階段を上りきった場所の地表面から厚さ7mの徳川期の盛土が確認され、その下に前回紹介しました貝化石を含む地山(上町層)が見つかっています。地山の高さは標高約11mです。この高さがこの地点における徳川再築以前の丘陵の高さと考えることができます。

写真3.市民の森から玉造口へ登る階段(図1-A地点)

写真3.市民の森から玉造口へ登る階段(図1-A地点)

写真4.玉造口から算用曲輪を望む

写真4.玉造口から算用曲輪を望む

(正面に見える東外堀南端の石垣の奥が算用曲輪)

そして明治19年の地図に示される丘陵状の地形は、徳川期の外堀の掘削で出てきた土砂を西側の高台から東側の低地に向かって投棄した結果、形成された痕跡と考えられるのです。それが陸軍の砲兵工廠の拡大によって削り取られ、現在のような地形になるのです。

ただ、そうであるとしても、玉造口に通じる園路の辺りと階段下の高低差は上町台地東斜面の傾斜を示していることは間違いありません。現在の地形から大阪城の歴史を考えてみるのも大阪城を探求する一つの魅力といえるのではないでしょうか。

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