太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.14

玉造口で見つかった豊臣時代の堀

前回と前々回のコラムで豊臣期の大手口と京橋口を防御する堀と石垣について紹介しました。今回は大坂城のもう一つの出入口である玉造口で見つかった豊臣時代の堀について紹介します。発掘調査では、広い面積の調査を行うことで様々なことが明らかになることがあります。前回紹介した大手前の堀跡の発見は、その代表的な事例といえます。一方、小規模な調査しか実施されていない場合でも、いくつもの調査結果を繋ぎ合わせていくことで、色々なことが分かってくることがあります。今回紹介する玉造口の堀跡は、その好例といえます。

玉造口の堀跡は、昭和54年(1979)の野外音楽堂の建設に先立ち実施された調査(図2‐A地点)で、東に面をもった残存高約2mの石垣とそれに伴う堀跡が延長約30mにわたって発見されました(写真1)。このA地点の石垣に連続すると考えられる石垣が、昭和58年(1983)に発掘されたB地点とC地点でも見つかっています。B地点で見つかった石垣は高さ1.8m残存していましたが(写真2)、A地点の石垣の残り具合を見ても、いずれもあまり高い石垣が築かれていたとは考えられません。また、A地点では堀の幅を確認すべく石垣に直交する方向の調査を行っていますが、42m掘っても対面する石垣は確認できていません。B・C地点で確認された石垣もA地点と同様に東に面をそろえていますので、石垣はA地点からまっすぐ北に延びるのではなく、一旦東に折れた後、再び北に折れてB・C地点を通るように延びていることが分かってきました。また、石垣の南の延長については、A地点の南延長上に設定された調査地点では石垣と堀は見つからず、D地点で連続する堀の埋土が確認されています。したがって、南側でも堀が東に折れていることが推測されます(図2)。

このように、野外音楽堂付近を中心として屈折して南北に延びる豊臣時代の堀とそれに伴う石垣が見つかっているのです。この堀と石垣については、発見された当初から慶長3年以降に築造された三の丸の防御施設であろうと考えられてきました。この理解は今も変わることなく、中村博司氏の大坂城図もこの堀を基準として玉造口を防御する堀が復元されています。

野外音楽堂で見つかった堀は南北方向ですので、この堀と連続して出口を囲う東西の堀が必要です。この東西堀がA地点の石垣から南西約120mのE地点(ピース大阪)で見つかっている堀だと考えられています。E地点で見つかった堀は西で北に振れる東西堀で、上端の幅約4mの土橋を挟んで東西に堀が延びています(写真4)。ところが、調査時点では土橋東側の堀は大坂冬の陣後に掘り足されたものと考えられており、掘られた当初は西側だけに深い堀が掘られていたと考えられていました。西側の堀の下部には南に面を持つ高さ1.8mの石垣が見つかっています(写真4)。ボーリング調査によって、石垣の高さは4.9m以上、堀の深さが検出面から11.4m以上あることが明らかになっています。中村さんの「慶長5年当時の大坂城全体図」に示された玉造口の復元案を提唱したのは大阪市博物館協会、大阪文化財研究所の黒田慶一さんです(※1)。黒田さんの復元は大手前で堀が発見される以前に提唱されていて、大手前の堀の発見により、復元案の妥当性が再評価をうけているものです。これまで、巨大な曲輪を想定した玉造口の復元案がありましたが、この復元が成立しないことは発掘調査の結果から明らかになってきたのです。

図1.玉造口周辺で発見された堀跡(茶色の部分)

図1.玉造口周辺で発見された堀跡(茶色の部分)

図2.玉造口周辺の豊臣期堀跡分布図

図2.玉造口周辺の豊臣期堀跡分布図

写真1.野外音楽堂敷地(A地点)で見つかった豊臣時代の石垣(北から)

写真1.野外音楽堂敷地(A地点)で見つかった豊臣時代の石垣(北から)

写真2.B地点で見つかった石垣(東から)

写真2.B地点で見つかった石垣(東から)

写真3.音楽堂西側の急斜面(東から)

写真3.音楽堂西側の急斜面(東から)

(A地点の堀は階段下から20mほど手前にある)

写真4.ピース大阪(E地点)で発見された堀と石垣(西から)

写真4.ピース大阪(E地点)で発見された堀と石垣(西から)

ただ、疑問がすべて解決しているわけではありません。E地点で見つかった堀と、A地点で見つかった堀が大手門と同様に馬出し曲輪を構成する堀であれば、いずれの堀も慶長3年(1598)以降に掘られたことになります。しかし、E地点で発見された堀は出土遺物の検討から豊臣時代の前半に掘られていたと考えられていました。豊臣大坂城築城当初に掘られた堀であるのか、秀吉没後に馬出し曲輪の堀として掘られたものかという解釈の違いは小さくありません。また、現在の中央大通りを挟んで復元される東西堀の南壁についても明らかとは言えません。E地点やA地点で発見された堀が『僊台武鑑』に描かれた玉造口の堀の可能性が大きくなったことは間違いありませんが、様々な要素を矛盾なく理解し、誰もが納得するまでには至ってないように思えます。大手前で行われたような大規模な調査が実施できれば疑問は氷解するのですが、疑問を解決するためにはもう少し時間が必要ではないかと思います。

写真5.E地点で発見された石垣近景

写真5.E地点で発見された石垣近景

ところで、ここまで紹介した堀跡はすでによく知られた資料ですが、平成4年度(1992)の調査によって、これまで知られていない堀とそれに伴う石垣が見つかっています(図1-F地点)。地下鉄鶴見緑地線森ノ宮駅舎の調査で発見されたもので堀の幅は13m、深さ1.3mの東西堀で両岸に花崗岩の石垣が築かれています。出土遺物から埋められた時期は豊臣時代の後半と考えられています。石垣の高さや、埋土の状況から音楽堂周辺で見つかる堀とは機能が異なっていたことが考えられますが、現在の東外堀から豊臣時代の東側の惣構(※2)であった「猫間川」(※3)までのようすは、まだよくわかっていないというのが実状です。この地域は特別史跡の範囲から部分的に外れる地域ですが(図1)、地下には豊臣時代の石垣や堀が眠っている可能性が高い地域といえるのです。

※1黒田慶一2000「豊臣氏大坂城三の丸再考-玉造口馬出曲輪(算用曲輪)を中心として-」『織豊城郭』第7号

※2惣構(そうがまえ)城と城下町を取り囲む最外郭の防御施設やエリアのこと。大坂城では北が大川、東が猫間川、西が東横堀川、南が空堀で防御されたと考えられている。

※3猫間川(ねこまがわ)阿倍野区に発し、JR環状線に沿って流れ、現大阪城ホール辺りで平野川に合流していた。豊臣時代の大坂城では東側の惣構となっていた。現在は埋め戻され、川は残っていない。

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