太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

新着情報

大坂の陣天下一祭 櫓(やぐら)特別公開で
「豊臣石垣公開プロジェクト」PRブースを設置します!

平成26年11月8日(土)〜平成26年11月16日(日)

大阪城 櫓(やぐら)特別公開

平成26年11月8日(土曜日)から11月16日(日曜日)までの9日間限定で、大阪城公園内の「一番櫓(いちばんやぐら)、千貫櫓(せんがんやぐら)、多聞櫓(たもんやぐら)、金蔵(きんぞう)」の4ヶ所を公開します。いずれも重要文化財で、通常は公開していない貴重な古建造物です。

今回の特別公開に際しては、櫓・蔵の内部にそれぞれの役割や機能、構造についての解説パネルを展示しています。また、大阪城に建てられている櫓は、大坂の陣で焼失後、江戸期に徳川幕府の手によって建造されたもので、今回の特別公開では、櫓を含め大坂城築城の大工事に尽力した当時の人物、徳川秀忠・藤堂高虎・小堀遠州との関わりも紹介します。

歴史ファンはもちろん、大人から子どもまで、大阪城の歴史を興味深く見学、学習していただけます。また、有料入場特典として、天下一祭ピンバッヂを進呈します。

公開期間

平成26年11月8日(土)〜11月16日(日)

公開する櫓等

一番櫓、千貫櫓、多聞櫓、金蔵

公開時間

期間中 10時〜16時30分
※チケット販売時間:15時30分まで、最終入場:16時まで

料金

大人(高校生以上):400円
子ども(中学生以下):200円 ※当日券のみ発売
未就学児:無料
※身体障がい者手帳・療育手帳・戦傷病者手帳・被爆者健康手帳・精神障がい者保健福祉手帳をご提示いただけますと、無料でご入場いただけます。(介護者1名も入場無料)
※上記料金で公開する全ての櫓をご覧いただけます。

入場券販売場所

一番櫓、千貫櫓・多聞櫓、金蔵
※千貫櫓・多聞櫓は隣接しているため、販売場所は1ヶ所です。

「豊臣石垣公開プロジェクト」のPRブースを設置

金箔瓦や資料展示、パンフレット配布

「豊臣石垣公開プロジェクト」解説パネルの設置、「太閤なにわの夢募金」パンフレット配付、大坂城跡から出土した金箔瓦の展示等を行います。ぜひ、お立ち寄りください!

設置期間

平成26年11月15日(土)〜11月16日(日)
10時〜16時30分

設置場所

大阪城公園本丸地区

今回公開する櫓等について

特別史跡大坂城跡には、13棟の重要文化財があります。これらの建物は、一部明治時代に建てられたことが明らかとなっているものを含んでいますが、幕末の火災や第二次世界大戦の戦火を乗り越えて残った、徳川大坂城の姿を留める貴重な建物です(徳川期の建物配置図参照)。

日頃は、建物の保護のため閉鎖されており、とくに一番櫓はこれまでほとんど公開されることがなかったものです。普段は見ることができない建物内部の様子を、この機会に是非ご覧ください。

一番櫓(いちばんやぐら)

二の丸南面の隅櫓のうち、東から数えて一番目にあるのでこう呼ばれた。玉造口方面を守る隅櫓のひとつで、玉造口に攻め寄せる敵を側面から迎え撃つ位置にある。1階は東西(梁間)6間、南北(桁行)7間、2階は東西4.5間、南北5.5間である。六番櫓よりわずかに小さいが濠側に石落としを設け、石狭間、腰狭間を多数備え、一時に多くの射撃ができる仕組みになっていた。創建は寛永5年(1628年)であるが、万治3年(1660年)、寛文8年(1668年)、天保3年(1832年)の3度に及ぶ修理が行われている。

昭和38年(1963年)から昭和40年(1965年)まで行われた解体修理の際、床下の栗石の間から、小袖や羽織、角帯、食器類などを一包にしたものが2点見つかっている。資料の検討から、幕末の解体修理に従事した職人のもので、工事の安全祈願のために埋めたのではないかと考えられている。

千貫櫓(せんがんやぐら)

大阪城の大手口を守る重要な隅櫓の一つ。元和6年(1620年)に小堀政一(遠州)の設計監督のもとで創建されたもので、昭和35年(1960年)の解体修理の際、土台の木材から「元和六年 九月十三日 御柱立」の墨書が見つかり、この櫓の棟上式の日が明確となった。現存の大阪城公園内の古建造物の中で、乾櫓とともに最も古いもの。

千貫櫓は、かつて大阪の地にあった本願寺を織田信長軍が攻めた時、本願寺のある隅櫓からの横矢に悩まされ、「銭千貫文出しても取りたい櫓だ。」と言わせたことから、後にこの櫓を人々が千貫櫓と呼ぶようになったと伝えられており、後世の櫓にも同じ名が引き継がれている。 

内部は、一階、二階とも回廊の内側に4室ずつの天井板張りの部屋がある。

多聞櫓(たもんやぐら)

大手口枡形の石垣の上に建ち、二の丸への出入り口となる大門を組み込んだ構造をしている。

この櫓には、大門の頭上に「槍落し」の装置があるが、これは敵の侵入に備えて設置されたもので、大門から進入しようとする敵を頭上から槍などを落として防御するためのものであった。

多聞櫓は、塁上に築く細長い長屋状の櫓を指し、この名の由来は、松永久秀(1510年〜1577年)の居城である大和国の多聞城において、初めてこの形式の櫓が築かれたことによる、と一般的に言われている。

大阪城の多聞櫓は寛永5年(1628年)頃に創建され、天明3年(1783年)に落雷で焼失したが、嘉永元年(1848年)に再建され、昭和44年(1969年)に解体修理が行われ、現在に至っている。

多聞櫓は、大門をまたいで東西方向に立つ渡櫓と、その東端部から直角に折れ曲がって南へ伸びる続櫓からなる。渡櫓には、板張りの部屋が3室続き、中央の部屋が一番広くて約70畳敷、両側の部屋は各々約50畳敷の大きさがある。中央の部屋の下が大門となっており、この部屋の南端部に「槍落し」の装置がある。続櫓には、西側(大手口に面した側)に銃眼を備えた笠石の並ぶ幅約2.7mの板張り廊下がまっ直ぐに伸び、その廊下に面して東側に9畳・12畳・15畳の部屋が合計6室並ぶ。

金蔵(きんぞう)

江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫の役割を果たした。「かねぐら」「かなぐら」とも読む。宝暦元年(1751年)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断・改造 して築造され、以来、北西側に以前からあった金蔵を「元御金蔵(もとごきんぞう)」、この金蔵を「新御金蔵(しんごきんぞう)」とよんで区別した。

高さは約5.8メートル、面積は93.11 平方メートルで内部は大小2室からなり、手前に通常の出納用、奥に非常用の金銀を置いた。構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。

なお元御金蔵は、明治25年(1892年)の配水池建設にともなって今の金蔵の東隣に移築され、さらに昭和4年(1929年)、陸軍によって高槻工兵隊の敷地内に解体移築され、のちに焼失した。

徳川期の建物配置図

櫓へのアクセス

櫓へのアクセス