太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.83

公開事業に伴う発掘調査の経過(2)
-「金蔵」と周辺の遺構 -

金蔵とは

豊臣石垣公開施設のすぐ西隣に国指定重要文化財の「金蔵」があります。文字通り幕府の御用金を収めた蔵で、大阪城では数少ない徳川期から残る建物です。

この建物は明治から第2次大戦まで陸軍の施設として利用されていました。昭和28(1953)年の重要文化財指定に伴い、昭和34~36(1959~61)年にかけて解体修理が行われました。その結果、この建物は本来2階建であった建物が、天保8(1837)年に平屋の建物(金蔵)に作り替えられていると考えられていました(※1)。しかし、新たな文献史料の発見によってこの建物が金蔵として作り替えられたのは、宝暦元(1751)年であり、その後天保8年に大規模な修理が行われたことが明らかとなっています。

ところで、金蔵には現在の価値に換算すると500~800億円相当の大判や小判、銀、銅銭が常時収納されていたといわれています(※2)。このため、外部からの侵入防止対策や荷重に耐える床の構造、通気に配慮した構造を見ることができます。

現在、金蔵は一般公開されていませんが、このほど建物の内外を動画撮影することができました。「百聞は一見に如かず」といいます。是非ご覧ください。

金蔵周辺の遺構の発見

さて、金蔵周辺の遺構調査は、第1次から第4次調査まで継続して行われました。第1次調査では金蔵の東約6mの位置で南北に延びる石列と、その東に接して石組み溝が発見されました(写真1右)。石列と溝は調査予定範囲を超えて南まで延びていましたので、遺構の全体像を確認するための調査を第2次・第3次調査で行いました。この調査では石列と石組み溝が敷地の南端まで延びていること、金蔵の南にも東西の石組み溝があり、この溝はこれまで見つかっていた南北の石組溝と交差することもわかりました(写真1右)。

写真1.金蔵周りの石列と石組み溝

写真1.金蔵周りの石列と石組み溝

(左:第4次調査、右:第3次調査、南東から)

また、石列を一時的に移転して行われた第4次調査で、金蔵と石列の間に一辺約2m、深さ1.5mの方形の柱穴が並んで見つかっています(写真1左)。これらの遺構は金蔵に関係する遺構で、石列と石組み溝が金蔵の東を囲む塀の基礎と雨落ち溝、柱穴が塀を支える控え柱ではないかと考えられています(図1)。

金蔵南側で見つかった東西の石組み溝は、南北の石組み溝より新しく築かれていることがわかっており、金蔵の移り変わりのなかで築かれた遺構であったことが推測されます。

図1.塀の復元模式図

図1.塀の復元模式図

(現地公開資料より)

金蔵の変遷

さて、現存する金蔵が宝暦元(1751)年に建てられたことは最初に述べました。ところが、大阪城にはこれ以外にも金蔵がありました。天守が落雷で焼失する寛文5(1665)年以前の姿を描いた絵図と、寛政5(1793)年に大坂城本丸を描いた絵図を見比べると、寛文5年以前の絵図では現在の金蔵の位置は、本丸御殿を囲む建物の位置と重なります(図2左)。

いっぽう、寛政5年の絵図には2棟の金蔵が描かれ、現存する金蔵が「新御金蔵」北西の位置にある東西棟の金蔵が「元御金蔵」とされています(図2右)。この元御金蔵は明治25(1892)年の配水池建設に伴い移転され、現在は残っていません。

また、寛政5年の絵図では金蔵の東と南を囲むように区画が表現されており、これが発見された石列や石組み溝を表現したものであると考えられるのです。発掘で確認された遺構の理解については正報告書を待たなければなりませんが、当時の絵図と対比できるほど徳川期の遺構がよく残っていることがわかったのです。

図2.絵図に描かれた金蔵

図2.絵図に描かれた金蔵
左:「大坂御城図」部分 寛文5(1665)年以前(国立国会図書館蔵)
右:「大坂城絵図」部分 寛政5(1793)年(大阪城天守閣蔵)

※1:大阪市1961『重要文化財大阪城千貫櫓・焔硝蔵・金蔵修理報告書 付乾櫓』
※2:大阪城天守閣2002「重要文化財 金蔵」解説資料 大阪市・(財)大阪市公園協会発行を参考にしました。
・大阪城天守閣2013 史跡・重要文化財指定60周年記念特別展図録『大阪城はこの姿-戦災からの復興、整備、そして未来へ-』P.77

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