豊臣石垣コラム Vol.80

〝謎の地下石垣〟を公開

大阪城本丸小天守台の南西角の南45mの位置に、豊臣時代の石垣を保存した「井戸」があります。〝謎の地下石垣〟と呼ばれ、いつもは蓋がされていて内部を見ることができないのですが、この地下石垣を11月21日(土)〜23日(月・祝)の3日間、大阪城・長浜城姉妹城連携事業「駆け上がれ!秀吉〜大阪城の秋まつり2020〜」に合わせて特別公開します。

この石垣については本コラムでも何度か取り上げていますが、今回は石垣発見の経緯を中心に改めて紹介したいと思います。

大坂城総合学術調査

石垣が発見されたのは昭和34年(1959)です。この年は、どのような年だったのでしょうか。石垣が発見されるきっかけとなった〝大坂城総合学術調査〟の企画が報道された昭和34年3月13日の讀賣新聞には、『大坂城初の総合学術調査 皇太子ご成婚と大阪市制70周年記念』の見出しが躍っています(※1)。事業は大阪市・大阪市教育委員会・大阪讀賣新聞社が主催し、文化財保護委員会(現文化庁)・大阪府・大阪府教育委員会が協賛しています。

記事によりますと、調査の完ぺきを期すため各界の重鎮で構成された「大坂城調査委員会」をおき、委員会で選任された「大坂城総合学術調査団」のメンバーによって以下のような調査が行われることが紹介されています。

  • 干上がった濠の原因解明、濠の水源、濠底の情況解明
  • 徳川諸大名の工事担当区分の明確化、埋められた濠の解明
  • 城内外の地質、地層の解明
  • 城内建築物の土台、構造の解明
  • 埋蔵物の調査など 大坂城にかかわる一切のナゾを究明することがうたわれています。

調査団は「歴史班」と「科学班」に分かれ、石垣の発見に至った科学班の調査として行われたのが、城内外の地質、地層の解明を目的として実施されたサウンディング調査(※2)とその成果を基に実施されたボーリング調査(※3)です。

サウンディング調査とボーリング調査

大坂城総合学術調査の正式な報告書は刊行されていませんが、調査を担当された京都大学工学部の村山朔郎教授により、『大阪城天守閣紀要』12号に「大坂城の地盤調査と地下石垣の発見」として調査経緯と成果がまとめられています(以下「報告書」と記載)(※4)。

「報告書」によりますと、昭和34年3月31日から1週間で本丸、山里丸、西の丸、東空堀、二の丸一番櫓周辺、旧NHK大阪放送局敷地や追手門学院校地など大阪城内外の計15測点、27カ所のサウンディング調査を実施しています。このうち、本丸小天守台の南西角の南方45m地点のサウンディング調査によって、地表下約8.2mで石に当たっています。そのため、2m西に地点をずらしてサウンディング調査を行いますが、ここでも8.7mで石に当たっています。2地点とも人工的な盛土と考えられる地層の下で石に当たっていることから、この石の性格を明らかにするため、試料サンプルが採取できるボーリング調査が行われました。ボーリング調査が実施されたのは昭和34年5月2日からです。

図1.大坂城総合学術調査団による本丸地区ボーリングの位置

図1.大坂城総合学術調査団による本丸地区ボーリングの位置

(村山朔郎1984「大坂城の地盤調査と地下石垣の発見」より作成)

ボーリングを実施した地点はサウンディング調査地点をわずかにずらした図1-Ⅰ地点でした。ボーリング調査では地表から9.35mで石材に当たり、12.0mまで複数の石材が重なって採取されています。このことから、採取された石材が、石垣であろうと推定されました。この結果を5月18日に「委員会」に報告し、その後石垣の延長方向を確認するため、Ⅰ地点から13m東のⅡ地点と、10m南のⅢ地点でもボーリング調査が行われています。

Ⅱ地点では地表下7.0m〜8.1mの間で石が採取され、それ以深の石をくり抜けなかったため、そこでボーリングを中止しています。Ⅲ地点では地下8.5mまでボーリングを行っていますが、石には当たらずこの深さで調査を中止しています。

以上の結果、Ⅰ地点とⅡ地点を結ぶ少なくとも東西13m以上の石垣が地下に埋まっていることが推定されることとなったのです。

発掘調査

ボーリング調査により地下7m付近に石垣が眠っていることが明らかとなったことを受けて、文化財保護委員会(現文化庁)の許可を得て、Ⅰ地点のボーリング地点を中心として方3mの範囲の発掘調査を行うこととなりました。調査期間は昭和34年12月7日から18日間です。

調査14日目にあたる12月20日に地表から7.5m掘り進んだところで、石垣が確認されています。「報告書」では「……午前11時、固い岩石状のものを掘りあてる。「石垣だ。」叫んだ声が上ずった。ついにあたった。間違いない。7.5メートル。石の表面はひどく焼け、剥離しかけているものもある。……」とその時の興奮を記しています。また石垣上面の最高所にある石が隅石で、深さは地表下7.32m(※5)であったと書かれています。

発掘調査はボーリング調査で石材が当たった地表下9.2m付近まで掘り下げ、それ以上の掘削が危険と判断され、そこで中止されています。最も掘削が進んだ時点の平面図と立面図が図2の実測図です。

図2.昭和34年発見時の石垣と現状の比較

図2.昭和34年発見時の石垣と現状の比較

(陰影の部分が現在見られる範囲、3D測量図は大阪市立大学提供)

ところで、発掘調査された石垣の範囲(図2の実測図の範囲)と、現在「井戸」の中に保存されて見ることができる石垣の範囲(図2の陰影図の範囲)は同じではありません。3m四方の調査範囲の中に土留めのための筒型の擁壁を入れたために、両端が擁壁の中に隠れてしまうこととなり、隅石が壁の中に隠れてしまっているのです。

石垣の保存公開

大坂城総合学術調査団は、発掘調査が終わった昭和34年12月27日に大阪讀賣新聞社において会議を開き、大阪市に要望書を提出することを決めています。要望は、

①発掘された地下の石垣を完全に保存したい。
②石垣の規模を確かめる調査を行いたい。
③Ⅱ地点Ⅲ地点を発掘し石垣を復元し完ぺきな資料としたい。

この①の要望にそって保存されているのが、今回特別公開する地下石垣です。②については大阪城天守閣によって地下石垣を探求するためのボーリング調査が継続的に行われ、その成果が報告されています(※6)。③については実現されていませんがB地点(図3)において新たな豊臣時代の石垣が発見され、現在、豊臣石垣公開事業を進めているところです。

新たな公開施設との関係

最後に、〝謎の地下石垣〟と北東約90mにある現在公開施設建設を進めているB地点の石垣との関係について紹介します。昭和34年に発見された地下石垣は本丸地下約7mで石垣の天端が発見されています。この面は3段に築造された豊臣期大坂城の「中ノ段」の地面に当たることが明らかになっています(図3※7)。地下石垣の天端の地面を配水池の方向を目指して掘っていきますと、金蔵の北で石垣に当たります。その石垣は高さが約6mあります。したがって、金蔵の北にある石垣の天端は現在の地表面から1mほど掘り下げたところにあるのです。これが、3段築成の最も高い曲輪となる「詰ノ丸」の地表面となり、豊臣期の天守台や本丸御殿があった地面となるのです。

図3.〝謎の地下石垣〟と新たに公開する石垣との関係

図3.〝謎の地下石垣〟と新たに公開する石垣との関係

一方、〝謎の地下石垣〟を下に追っていきますと、3段築成の最も低い曲輪となる「下ノ段」に到達するはずです。その深さは現在の地表面から10数mも下にある可能性があります。しかし、この「下ノ段」の姿は、当時の人を除けば誰も実際に見た人はありません。

いつかはこの目で見てみたいものだと思いますが、現地に立って地下に眠る豊臣期の大坂城に思いを馳せていただきますと、これまでとは違った大阪城の魅力を感じていただけるのではないかと思います。ぜひ、この機会に〝謎の地下石垣〟を見学していただきますようご案内いたします。

※1:皇太子(当時)のご成婚は昭和34年4月10日、調査団の結成は3月15日でした。

※2:サウンディング:細い鉄棒(ロッド)に錘を載せて地中にねじり込み、その時の貫入抵抗によって地盤の硬さを測るもの。石材など障害物に当たると貫入が不可能となります。

※3:ボーリング調査:ボーリング機で一定の打撃力で筒状の採取器を地中に打ち込んで貫入させる。サウンディングに比べて測定精度が高く、土試料や岩石標本を採取することもできます。

※4:村山朔郎1984「大坂城の地盤調査と地下石垣の発見」『大阪城天守閣紀要』第12号

※5:ここに紹介された日誌は発掘調査を担当された大阪城天守閣学芸員、秋山進午氏の日誌です。また、地下石垣が確認された深さは、サウンディング調査やボーリング調査で数値が異なりますが、これは、石垣の傾斜のどこに当たったかによるものです。「報告書」では、地下7.32mがもっとも高い位置で確認されている数値となっています。

※6:昭和39・40・48〜56年度まで継続的にボーリング調査が行われています。成果は『大阪城天守閣紀要』のほか、岡本良一編1985『日本名城集成 大坂城』小学館に成果がまとめられています。

※7:徳川期天守復元図は松岡利郎1988『大坂城の歴史と構造』名著出版から引用させていただきました。

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