豊臣石垣コラム

南外堀55号壁

前号では南外堀58号壁について城の写真家、岡泰行さん撮影の写真を紹介させていただきました。今号は58号壁の東、現存する一番櫓と戦災で焼失した2番櫓を繋ぐ南北方向の石垣について紹介します。築城史研究会刊行の『大坂城石垣調査報告書』二(以後、『報告書』と記す)では55号壁の立面図は報告されていないのですが、岡さんの写真と対比していく中で、58壁(『報告書』では第8409号壁)として報告されているものが55号壁(『報告書』には未掲載)の一部であることが判明しました。今回は『報告書』に紹介された55号壁の石垣と写真の対応についても紹介したいと思います。

写真1. 55号壁全景と部分写真・図の位置

写真1. 55号壁全景と部分写真・図の位置

55号壁の位置と概要

55号壁は、徳川期大坂城再築丁場割図によれば、北(右)から京極若狭守(若狭・小浜)、織田刑部大輔(丹波・柏原)、鍋島信濃守(肥前・佐賀)の3家が分担した石垣となっています。二番櫓が建つ隅角部は鍋島家が担当しています。全景写真(写真1)を見ますと、石垣中央部が左右と色合いが違うことに気が付きます。62号壁や58号壁で見られた青みがかった石ではありませんが、色調が違うことがよくわかります。

写真2. 京極家丁場の刻印

写真2. 京極家丁場の刻印

(基本の形は似ていますが、細部で異なる刻印です)

写真3. 織田家丁場の刻印「〇に三つ引き両」

写真3. 織田家丁場の刻印「〇に三つ引き両」

(①は十六の刻印②の刻印の下に( 」)の線刻が見えます)

それぞれの刻印は京極家が「四つ目結」(写真2)織田家が「〇に三つ引き両」(写真3)(※1)、鍋島家の刻印は方形の上に細長い長方形が組み合わされたもの(写真4)です。岡さんの写真を細かく見ていきますと、京極家の刻印は方形を2本線で4つに分け、2本線が交わる中心にも方形を刻む(写真2-②③⑤)、方形を2重に刻み、内側の方形の中に+を刻んだ「略文」(写真2‐①④)など、細部で異なるものがあります。刻印の配置は方形の各辺を水平にするものもありますが、多くは角を上下左右に合わせています。

織田家の刻印は「〇に三つ引両」(写真3-②〜④)で前号で紹介した58号壁の近江・分部家の刻印と同じです。全景写真で色合いが違ったエリアはこの織田家の丁場の部分に当たります。

写真4.鍋島家丁場の刻印

写真4.鍋島家丁場の刻印

(線刻が浅く、明瞭にわからない部分があります。④の上には3角形の線刻が見えます)

鍋島家の丁場には刻印が多数見られますが、線が浅く、刻印の有無は分かるものの、細部が明瞭にわかるものは多くありません。基本となるのは2本線で方形を刻み、その上に細い長方形が組み合わされるものです。方形の中にも何か刻まれていますが、もう一つ明瞭には分かりません。鍋島家の丁場では藩の標識となるこの刻印以外に「井桁」や小さな「〇」の刻印が見られます。

写真5.図1 間数刻印拓本と写真の対比

写真5.図1 間数刻印拓本と写真の対比

(調査では「十四」の刻印が確認されていません。築城史研究会2006『大坂城 石垣調査報告書』(二)33pの資料に加筆)

築城史研究会の調査

『報告書』に掲載されている55号壁の図の位置を全景写真の中に示しました(写真1)。調査年月日は平成5年(1993)6月6日となっていますので、58号壁の調査より7年前の状況を示していることになります。この図面には笠石を含む23段の石が描かれています。2020年1月に撮影された岡さんの写真では28段の石が写っており、現在より5段分水位が高かったことがわかります(※2)。また、城郭研究家の志村清さんが昭和40年代に撮影された写真6には35段分の石が写っています。

築城史研究会の『報告書』に55号壁の図が紹介されているのは、新たに石垣の高さを示す数字の刻印が確認されたからです。織田家の丁場の調査で水際に「八」、笠石直下の石に「十七」の数字があることから、石垣の高さが基部から17間ではないかと想定されているのです(※3)。「八」の数字が刻まれた石から「十七」が刻まれている石までは21石ありますので、計算上は1間が約2.3石となります。そうすると、計算上は40段ほどの石が積まれていることになります。南外堀が干上がった時期の志村さんの写真に写る石は34段(笠石を除く)ですので、地中に5石程度埋まっている可能性があることになります。

南外堀の発掘調査

ところで、二番櫓が建つ隅角部の底は大阪城天守閣によって昭和47年(1972)に発掘調査されています(※4)。調査では地中に埋まっていた2石が確認され、3石目の石は前方へせり出し、その下場(地下2.8m)まで確認しようとしたところ、激しい湧水によって確認できなかったと書かれています。大坂城跡では高石垣の基底部を確認した事例は多くありませんが、天守台の石垣や空堀石垣のサウンディング調査(※5)でも基底部の石が前方にせり出している状況が確認されています。したがって、発掘で確認された3石目の石が根石であった可能性が高いのではないかと思います。

志村さんの写真に写る34段に数石が加わるとすると、計算上の石の数と近い数字になります。築城史研究会の理解が正しいことを傍証しているといえるのではないでしょうか。

写真6.昭和40年代の一番櫓と55号壁(志村清氏提供)

写真6.昭和40年代の一番櫓と55号壁(志村清氏提供)

おわりに

3回にわたって岡さんが望遠レンズで撮影された写真からどのようなことが見えてくるのかを紹介させていただきました。築城史研究会の『報告書』に記された内容は、実際に現地で確認したものでしかわからない情報が豊富で、地道な調査の積み重ねであることがわかります。一方、写真には石の色や質感、加工の特徴など、図では表現できていない情報が豊富に含まれていることがよくわかっていただけるのではないかと思います。

築城史研究会の地道な調査に敬意を表すると共に、ご多忙のなか石垣撮影いただき、掲載を快諾いただきました岡泰行さんに心より御礼申し上げます。

※1:織田家の「〇に三つ引両」は58号壁の「分部家」の刻印と同一です。58号壁の刻印は3本線が水平となるように配置されていますが、55号壁の刻印は線の方向がランダムに設置されている違いが見られます。

※2:58号壁の立面図を作成した2000年の水位が最も高く、現在の水位が最も低いことがわかります。

※3:徳川再築時の縄張の1間は、6尺5寸(1.97m)と考えられていますので、17間は33.49mとなります。

※4:大阪城天守閣1973『大阪城南外濠々底遺構発掘調査概報』濠底に残る石列と徳川期の石垣の基礎を確認する調査が行われています。この調査が行われた後、水堀が復元され石垣面に近づくことはできなくなりました。

※5:地盤に鉄の棒を突き刺してその沈み方から地盤の硬軟や締まり具合を調査する方法。本来は建築工事のための地盤調査に用いられますが、大阪城では地下の遺構の存在や地盤の状況を調べるために行われています。

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