太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.73

レンズを通して見た刻印石

昨年6月号から12月号にかけて城の写真家、岡泰行さんに大阪城の撮影スポットを紹介していただきました。季節によって、場所によって、時刻によって移ろう大阪城の姿を鮮明で美しい写真を通して紹介していただき、大阪城の魅力を再発見された方も多いのではないでしょうか。今回は、岡さんが撮影された写真を通して見た大阪城の魅力の一端を紹介したいと思います。

「大坂城総合学術調査」

昨年は昭和34年(1959)に実施された「大坂城総合学術調査(※1)」から60周年の年にあたっていました。総合学術調査では「本丸地下石垣」の発見につながったボーリング調査のほか、現存する石垣に刻まれた刻印石の悉皆(しっかい)調査などが行われています。刻印石調査の成果は学生社という出版社から『大坂城の謎』(※2)として昭和45年(1970)に刊行され、調査成果の一端を知ることができます。

その時の調査では、基本となる刻印の種類が約200種、すべての刻印の種類は1247種と報告されています。刻印石調査はその後も城郭研究グループの「築城史研究会」によって引き継がれ、調査成果の一部が平成18年(2006)に刊行されています(※3)。この報告は、写真からおこした石垣立面図に刻印を描いたもので、刻印の種類や施された位置、相対的な大きさの違いまで示されています。石垣の場所と刻印の種類が一覧表で示されることが主体であったそれまでの研究に比べ、調査成果が広く共有されるという意味において大きく飛躍した研究成果であるということができると考えます。

大阪城の全域石垣壁面番号 村川行弘『大坂城の謎』学生社刊行より

図1.大阪城の全域石垣壁面番号

村川行弘著『大坂城の謎』学生社刊行より

干上がっていた外堀

ところで、「総合学術調査」が実施された頃は、南外堀や西外堀は干上がっていたため、許可を得れば堀に入って二の丸の高石垣に近づいて観察することが可能でした。しかし、水堀が復元された現在では物理的に石垣に近づくことが困難であり、一部の石垣を除くと二の丸高石垣の刻印を肉眼で観察することは困難な状況となっています。

そこで、岡さんにお願いして水堀を挟んで石垣がどのように撮影できるのか、南外堀の堀外から二の丸南面の石垣を何カ所か撮影していただきました。撮影に使用したレンズは石垣アップのものが300〜400mm望遠(35mm換算)レンズとのことです。今回その一部を紹介させていただきます。

図1は『大坂城の謎』の中で紹介されている石垣の番号です。築城史研究会から出版された報告書では、新たな基準によって壁番号がふられていますが、ここでは『大坂城の謎』の石垣番号を使わせていただきます。今回岡さんに撮影していただいたのは南外堀の二の丸側の石垣番号52・55・58・68号壁の一部です。このうち、68号壁の写真を紹介します。

写真1.南外堀68号壁全景と拡大部分の位置(櫓は六番櫓)

写真1.南外堀68号壁全景と拡大部分の位置(櫓は六番櫓)

南外堀68号壁

68号壁(写真1)は現存する六番櫓の西側の石垣であり、有名な「謎の抜け穴」がある石垣です。外堀の石垣は一定の高さまでは石表面の汚れが少なく花崗岩本来の岩肌が見えています。部分写真は石の表面がよく観察できる水際の部分中心に撮っていただきました。

68-1(写真2)を見ますと、左右中央付近に上下に刻印が並んで見られます。①・②・③は「折敷(おしき)に三文字」と呼ばれる文様が刻まれ、④・⑥・⑧には「(ひ)」の刻印がみられます。これまでの研究で「折敷に三文字」の刻印は丹波、福知山の稲葉淡路守、「(ひ)」の刻印は筑後、柳川の立花飛騨守の刻印です。この刻印の境が稲葉家と立花家の丁場の境界になることがわかります。また、立花家の丁場の石には「(ひ)」以外に番号が打たれている石があります。水際の⑩には十一、そこから上にむかって④の十七まで番号が確認できます。これは石垣基底の石から数えた石の順番を示す番付と考えられます。

写真2.68-1拡大 丹波稲葉家と筑後立花家

写真2.68-1拡大 丹波 稲葉家 丹波 稲葉家 筑後 立花家 筑後 立花家

次に、68-1の西に連続する68-2(写真3)を見ますと、ここでは上下の方向に連続する3種類の刻印がみられます。⑨と⑩の石には「折敷に三文字」、その左には「矢羽」が2列、その左に「∥」の刻印がみられます。「矢羽」の刻印は豊後、佐伯の毛利伊勢守の刻印で「∥」は普請丁場割図の検討から筑前、福岡の黒田家の丁場に刻まれていると考えられます。この刻印の石にも①に十八、②に十七、⑤や⑥の石にも全体像は不明ですが十の字が確認できます。これも石垣基底からの石の順番を示す番付と考えられます。

写真3.68-2 丹波稲葉家と筑後立花家

写真3.68-2拡大 ∥ 筑前 黒田家 豊後 毛利家 豊後 毛利家 丹波 稲葉家 丹波 稲葉家

石材の違い

また、「矢羽」が刻まれた毛利伊勢守の石は青みがかった特徴のある石で構成されていることが写真からよくわかります。毛利家の丁場は幅3石分と非常に狭い(丁場割図に記載された数値は1間4尺6寸※4)のですが、境界を接するすべての石に下向きの「矢羽」を刻み、石の色調も他と異なり築かれた当初はよく目だったのではないかと思われます。⑧石には2個の刻印がありますが、これは、間違って上向きの「矢羽」を刻んだため、改めて下向きの「矢羽」を刻んだ結果、同じ刻印が二個刻まれたのかもしれません。

今回紹介した68号壁については、『大坂城の謎』の中でも確認された刻印の一覧が示されています。そこには今回紹介した種類以外の刻印が紹介されています。おそらく今回紹介できていない部分に異なる刻印が刻まれているのではないかと思われます。また、刻印を見慣れた方が見ると筆者が気付いていない発見があるのではないかとも思われます。

一方、「∥」の刻印は『大坂城の謎』に記載された68号壁の刻印一覧に示されていません。しかし、写真を見る限り同じ刻印が上下に並んでみられますので丁場の境を示す刻印であると考えられます。丁場割図の配置からは、この刻印は黒田家の丁場を示すものであると考えられますが、この理解が正しいか否かはこれからも確認が必要です(※5)。

以上のように望遠レンズで撮影された写真によって肉眼で見ることが困難な刻印や石垣の特徴が十分観察可能なことがわかっていただけたのではないでしょうか。今後、68号壁以外の写真についても紹介させていただきたいと思います。

※1:昭和34年(1959)に、大阪市制70周年、皇太子(現上皇陛下)のご成婚を記念して大阪市・大阪市教育委員会・讀賣新聞大阪本社が主催して行われた大阪城初の総合学術調査。

※2:村川行弘1970『大坂城の謎』、学生社刊行

※3:多賀左門編集2006:『大坂城 石垣調査報告書(二)』、発行:築城史研究会

※4:1間4尺6寸は、1間を6尺5寸としますと、約3.36mになります。

※5:68号壁の調査は、「大坂城総合学術調査」後も「築城史研究会」によって調査されています。刻印石研究の第一人者であった故藤井重夫さんの著作によると外堀の水が涸れていた時に、水堀の復元によって水没する部分の調査を集中的に実施されたことが書かれています。おそらく、未報告の調査成果がまだ多数残されていることが予想されます。

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