太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

徳川期大坂城の井戸

昨年10月から3回にわたって現存する大坂城の井筒について取り上げてきました。この間、用語が分かりにくい、徳川期の井戸の位置がよく分からない、「金明水」と「黄金水」の関係がはっきりしないなどのご意見がありました。今回はいただいた疑問について取り上げ、徳川期大坂城に関る井戸のまとめとしたいと思います。

井戸の呼称

これまでの報告では地上にある石製の井戸枠を「井筒」と説明してきました。広辞苑第7版を見ると「い-づつ(井筒)」「①井戸の地上の部分を木・石・土管などで囲んだもの。本来は円形だが、広く方形のものをもいう。井戸側。化粧側。」とされています。広辞苑の説明によりますと、木で組んだ方形の枠なども井筒と呼び、井戸側や化粧側とも呼ばれるということになるのでしょう。二の丸や三の丸には木で組んだ井筒もあったのではないかと考えられますが、明確な資料はありません。また、これまでの報告の中では井戸本体のことはほとんど取り上げていませんが、「金明水」井筒を紹介した際、地中の部分を井戸側、地上の部分を井筒と呼び分けて記述しています。

本丸内の井戸と深さ

徳川大坂城の再築工事に伴う分担を記録した『大坂築城丁場割図』(以降、丁場割図と記述)に本丸内の井戸の位置と深さが書かれています(図1-①〜⑦)。これらのうち、山里丸の2基の井戸(図1-①②)をのぞく③〜⑦には井戸の名称があったようです。小野清氏の『大坂城誌』(※1)によれば、③黄金水ノ井、④金蔵前金水ノ井、⑤台所前銀水ノ井、⑥数寄屋囲ノ井、⑦厩曲輪(うまやくるわ)ノ井の名称が書かれています。

③が現在「金明水」と呼ばれている小天守台の井戸、⑤が「銀明水」と呼ばれている井戸となりこの2基の井戸が現存しています。また、丁場割図に記された井戸の深さは③の黄金水ノ井が十九間一尺、内五尺水、三尺井筒、⑤の銀水ノ井が十四間三尺、内二尺五寸水と書かれています。1間の長さを6尺5寸(196.95cm)として計算しますと、井戸の深さは③の黄金水ノ井が37.72m、⑤の銀水ノ井が28.48mになります。また、山里丸の井戸は地形が急激に低くなることから①が13.93m、②が14.69mとなり、御殿エリアの井戸と約14mの違いがあります。いずれにしても湧水層に達するために極めて深い井戸が掘られているのです(図2※2)。

図1.『大坂築城丁場割図』に記された井戸の位置と深さ

図1.『大坂築城丁場割図』に記された井戸の位置と深さ

図2.本丸断面と井戸深さ模式図

図2.本丸断面と井戸深さ模式図

(佐々木良作・中村博司2003「大坂城本丸内井戸(金明水等)と堀の水位について」『歴史遺産としての石造構造物の土木史的研究』より(一部改変))

「金明水」と「黄金水」

小天守台の井戸は徳川期に「黄金水」と呼ばれていましたが、現在では金明水と呼ばれています。この名称の変化はいつ頃おこったのでしょうか。

徳川期に書かれた『大坂御城順路書』(※3)には、「一 …御天守台中段ニ石井戸有黄金水ト云御番頭預り但深サ三拾三尺寸ト云…」と書かれています。また、戦前の絵葉書には、井戸屋形に「黄金水」と書かれた木札が取り付けられたものがあり、天守閣復興前の陸軍売店が城内見学者用に発行した案内図にも黄金水と書かれています。

ところが、昭和6年に完成する大阪城公園の設計図には、「金明水」と書かれ、大阪城公園の開園にあわせて大阪市役所が発行した『大阪城』の付図にも「金明水」と書かれています。大阪城公園開園前後で呼称が混乱し始めているといえそうです。そして井戸屋形が重要文化財に指定された昭和28年には、「金明水井戸屋形」として指定され、その後金明水の名称が定着していったという経緯ではないかと思われます。

銀明水井筒の下に井戸はあるのか

現在、桜門枡形内に銀明水の井筒と敷石があり、神社などにある「手水(ちょうず)」として使われています。この井筒と敷石は、本来銀明水井戸のあった現ミライザ大阪城(旧第四師団司令部庁舎)北東の位置から移転させられました。銀明水井戸の位置は、旧第四師団司令部庁舎の周りに掘られたドライエリアと接しており、建物建設にあたって井戸の一部が支障をきたしたのではないでしょうか。銀明水井戸があった場所には、一辺218cm、高さ70cmのコンクリートの枠と、その上部に82×150cmのステンレスの蓋があります(写真1)。銀明水井戸はこのコンクリートの下に残っており、桜門横の井筒の下には井戸はありません。

写真1.銀明水井戸の現状(東から)

写真1.銀明水井戸の現状(東から)

修道館西の井筒は「蓮如井」の井筒なのか

2018年10月号 でも紹介しましたが修道館西側の井筒は、大手土橋外にあった「蓮如井」の井筒そのものであるという城郭研究家の志村清さんの説があります。志村さんは「私の勝手な想像です。」と断りながら、「蓮如井の井筒が明治から大正にかけてのどこかで玉造口定番上屋敷跡の井戸に移され(※4)、井筒が移されたことによって近くにあった松の巨木が蓮如と関係付けられ「蓮如上人袈裟懸けの松」との伝承ができた。それによって昭和4年に袈裟懸けの松の近くに「蓮如上人碑」や「六字名号」の石碑(写真2)が建立された。井筒は第二次大戦後玉造口横に移され(この時の状況を志村さんが視認)、その後の公園整備によって現在の修道館西に移転されたのではないか。」というものです。

その正否を判断することは難しいのですが、井筒の特徴が他と異なることは明らかですので、このことがどのように考えられるのか今後も検討してみたいと思います。

写真2.玉造口定番上屋敷跡にある「六字名号」石碑と「石山本願寺と大阪(大坂)」解説板

写真2.玉造口定番上屋敷跡にある「六字名号」石碑と「石山本願寺と大阪(大坂)」解説板

(六字名号石碑の右に「蓮如上人碑」、背後に「袈裟懸けの松」切り株の覆い屋があります)

大阪城に現存する江戸時代の井戸

徳川期の井戸は本丸の2基のほか二の丸に4基残存しています。1基はこれまでにも紹介してきました徳川期の西大番衆小屋の井戸、もう1基が現在公園詰所となっている西大番組頭小屋にあった井戸、そして西の丸にある2基の井戸です。徳川期の再築時には二の丸や三の丸にあった屋敷それぞれに井戸が配置されていたことが絵図によって確認することができます(図3)。総数は29基あるいは30基とされますが、豊臣期大坂城の井戸が徳川期に再利用された可能性も想定されており(※5)、徳川期の井戸の究明はこれからも重要な研究課題といえるのではないでしょうか。

図3.『大坂御城図』に描かれる現存する井戸の位置(○印)

図3.『大坂御城図』に描かれる現存する井戸の位置(印)

(国立国会図書館蔵)

※1:明治32年(1899)に刊行された『大坂城誌』が昭和48年(1973)に名著出版から復刻されています。

※2:『大坂城普請丁場割図』に記された井戸の深さと、小野清氏の『大坂城誌』に書かれた井戸の深さは異なっています。例えば『大坂城誌』では銀水は14間5寸、『丁場割図』では14間3尺となっています。その他の井戸も『丁場割図』の方がわずかに深い数値となっています。

※3:岡本良一編1985年『日本名城集成 大坂城』(小学館)において「徳川再築大坂城の天守・櫓」を執筆した松岡利郎氏が付編として掲載されています。

※4:明治19年(1886)測量の『大阪実測図』に大手土橋外に井戸が描かれていますので、ここから移動させられたとすると、移動はそれ以降であったと考えられます。

※5:豊臣期の本丸内の井戸と徳川期の本丸内の井戸は位置的に重なるものが多く、豊臣期に築かれた井戸の上に徳川期の井戸側を積み足しているのではないかと推定され、調査されたことがあります。しかし、その時の調査ではその想定を確認することはできていません。

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