豊臣石垣コラム Vol.33

「太閤(背割)下水」考

コラム4月号で紹介しました豊臣期の達磨窯発見地点のすぐ西隣に、「太閤(背割)下水」の見学施設があります(写真1・図1)。

「太閤下水」とは、大阪に残る近世の下水道の呼称で、平成7年(2005)に現在も機能している約7kmが大阪市の史跡に指定されました(※1)。

皆さまもどこかで名前を耳にしたことがあるのではないでしょうか。そして、太閤下水という名称から秀吉時代の下水道が、現在まで残っていると考えられている方も多いのではないでしょうか。

今回は太閤下水の具体像について考えてみたいと思います。

写真1.中央区和泉町1丁目の背割下水見学施設(南から)

写真1.中央区和泉町1丁目の背割下水見学施設(南から)

右側白い三角形の下に下水道が通り、窓越しに常時見学が可能

まず、用語について整理しておきます。太閤下水は「背割下水(せわりげすい)」とも呼ばれます。

背割下水というのは、下水道の位置が町境となり、下水道を挟んで町が背中合わせになることから名づけられたと考えられます。とくに船場の町割として今もよく残っており、背割下水の位置がビルとビルの隙間として長く連続する景観を現在も確認することができます。

それでは、太閤下水と背割下水はまったく同じものを指していると考えてよいのでしょうか。

背割下水は、町境の位置に敷設された下水を指しますが、太閤下水は、必ずしも背割(町境)の位置にあるものだけではありません。ここでは、大坂の町造りの特徴として語られる背割下水について考えますが、背割下水を太閤下水と読み替えていただいても大きな間違いはないと思います。

図1.太閤下水(背割下水)公開施設位置図(マップナビおおさかより)

図1.太閤下水(背割下水)公開施設位置図

(マップナビおおさかより)

ところで、大阪市の下水道を長年研究されている大阪市役所OBの山野寿男さんによれば、背割下水・太閤下水の用語が登場するのは昭和40年代以降ではないかとされています。江戸時代の絵図には背割下水は「水道」と記されており、下水という用語が大阪で一般的になるのは明治になって登場する上水道と区別されるようになってからのようです(※2)。

さて、問題となるのは、これらの下水道が太閤秀吉と結びつけて呼ばれるように、秀吉の時代まで遡るものであるかどうかです。

発掘調査で発見された背割下水のなかで最も年代が遡るのは、船場の道修町1丁目と平野町1丁目の町境の位置で見つかった江戸時代初めの木組み溝の事例です(※3)。

これまでのところ、明らかに豊臣時代(天正11年から慶長20年)まで遡る背割下水は確認されていません。では、船場の背割下水が江戸時代になってから敷設されたものといえるのかというと、そのように断定できる根拠も十分ではありません。背割下水の位置が公有地とされ、背割下水をまたいで調査を行なう例がほとんどないからです。

船場の碁盤目状の町割は、秀吉が亡くなる慶長3年(1598)に施工されたと考えられています(※4)。約40間四方の方形の街区が碁盤目状にならび、街区を南北に二分する位置に東西方向の下水が敷設されます(図2)。東西方向の背割下水は街区を越えて連続して築かれ、下水道の位置と町割は一体となって形成されたと考えられます。

写真2.見学施設から下水道が延びる方向を見る(東から)

写真2.見学施設から下水道が延びる方向を見る(東から)

家と家の間の通路下に下水が通る。この部分が町境となる。左(南)が和泉町2丁目、右(北)が農人橋2丁目

このことから、船場が開発された慶長3年に背割下水と町割は同時に築かれていたと考えられるのです。ただ、その施設は現在残る石積みの下水溝ではなく、木組みの下水溝だったと考えられます。

船場の背割下水については以上のように考えられるのですが、開発が船場よりも早かった東横堀川の東側、上町地域ではどうでしょうか。この地域は開発の経過が複雑です。豊臣期に厚い盛土層が何度かあり、秀吉が大坂城を築き始めた頃の地面と夏ノ陣で焼けた時点の地面の高さが数mも違うところがあります。

また、大坂夏ノ陣の焼土層の上には徳川期、近現代の盛土があり、その上が現在の地面となります。上町地区に現存している背割下水は、いずれも江戸時代の盛土の中に築かれており、豊臣期まで遡らないのです。船場の町割が行なわれた慶長3年には上町地区でも大規模な造成工事が行なわれています。この時の改変に伴い築かれた可能性が高いと考えられる石組溝も各地点で発見されていますが、それは現在残る背割下水とは繋がらないのです。

写真3.現役の太閤下水

写真3.現役の太閤下水

U字状の溝は明治期に補修されたコンクリート造、この下にも側石が続く

一方、徳川期の慶安年間(1648〜1658)頃の大坂を描いた絵図には、現在太閤下水の公開施設となっている下水道の位置に「大水道」と書かれた水路が表現されています。少なくともこの時期には、現在に続く江戸時代の下水道網が上町地区に整備され始めていたことが想定されます。

このように見てきますと、慶長3年に町割が実施された船場では町割の成立とともに背割下水が設けられた可能性が大きいこと、上町地区では現在残る背割下水は徳川期に成立し、豊臣期には異なる下水道網が存在した可能性が大きいことが想定されるのです。

山野さんの研究によれば、江戸時代の下水道が現役で使われているところはほとんどないようです。秀吉の時代にまでは遡らないかもしれませんが江戸時代に整備された下水網がそのまま使われているということは、近世大坂の都市計画の先進性を示しているといえるでしょう。

図2.船場の町割と背割下水模式図

図2.船場の町割と背割下水模式図

渡辺武1982「大坂の復興と発展」『大阪城400年』大阪書籍所収から転載
(図中に1間=約1.8mとありますが、船場の町割の尺度は1間=6尺5寸=約1.97mであることがわかっています)

※1:中央部下水道改良事業の下水道敷(通称「太閤下水」)として大阪市史跡に指定されています。
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009095.html
また、太閤下水の公開施設については下記をご参照下さい。
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000010446.html

※2:山野寿男2007『背割下水の研究-近世大坂の水道-』139ページ「私家本」
背割下水について最も詳しい書籍です。大阪市中央図書館に所蔵されています。
山野寿男2009「暮らしと水-近世の大坂を中心として」『大阪春秋-特集水の都おおさかⅡ-』

※3:船場地域の発掘で背割りの位置を含んで調査が行なわれた例は2例しかなく、そこでは、江戸時代初期の東西方向の木組み溝が見つかっています。
(財)大阪市文化財協会2004『大坂城下町跡』Ⅱ、所収

※4:内田九州男1989「豊臣秀吉の大坂建設」『よみがえる中世2本願寺から天下一へ 大坂』

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