太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

山里丸の刻印石と残念石

刻印石広場とは

大阪城本丸の北側、山里丸に「刻印石広場」と呼ばれる石材を集めた一画があります(写真1、図1)。80個を超える大小さまざまな石材が置かれており、子どもが石の上に上って遊んでいる姿をよく目にします。これらの石が江戸時代の様々な符号を刻んだ刻印石の展示場であることをご存知の方も多いことと思います。

この刻印石広場は、大阪築城400年を記念する事業の一環として、昭和58年(1983)に開設されたものです。今回は山里丸の刻印石広場と大阪市内に残る徳川大坂城石垣石材について取り上げたいと思います。

写真1.刻印石広場(南から)

写真1.刻印石広場

(南から)

刻印石広場の石の配置

刻印石広場の石の配置を見ますと、いくつかのグループに分けて置かれています。解説板には、「大阪城内ゾーン」「竜造寺町ゾーン」「寝屋川ゾーン」「木津川口ゾーン」「その他ゾーン」「玉造町ゾーン」の6つのグループに分類され展示されていると書かれています(図1)。

このゾーン分けは、展示された刻印石がどの地域から出土しているのかを示しています。

このうち、「大阪城内ゾーン」というのは文字通り大阪城内で石垣の一部として使われていたものが、石垣修理などで撤去されたものです。また、「寝屋川ゾーン」というのは、昭和50年(1975)に日本経済新聞大阪本社(中央区大手前1)の社屋建設工事の際に出土した寝屋川の護岸石垣に使用されていた石材で、他のゾーンの石に比べて小さく、大きさもまとまっています(※1)。それ以外の「竜造寺町ゾーン」や「玉造町ゾーン」「木津川口ゾーン」というのは、1ヶ所から出土したものではありませんが、発掘調査などで出土したものが集められたものです。

図1.刻印石広場の石材配置

図1.刻印石広場の石材配置

(黒塗りは解説板が埋込まれた石材)

図2に刻印石広場に展示された各ゾーンの位置を、地図中に大まかに示しました。また、同じ図の中に赤の破線で示した地点は、筑前黒田家が徳川大坂城第二期工事(1624〜1626)において石揚げ場としていた場所を示しています(※2)。これを見ますと、木津川や道頓堀川、東横堀川など、川に沿った地点に石揚げ場があったことがわかります。石揚げ場は当然ながら黒田家以外にも必要であり、大阪市内には徳川大坂城の再築に関わった各大名の石揚げ場が多数あったと考えられるのです。6つのゾーンのうち、「木津川口ゾーン」の刻印石は、川沿いにあった石揚げ場に保管されていた可能性が考えられます。

図2.刻印石広場の刻印石出土地と残念石を利用した石碑の分布

図2.刻印石広場の刻印石出土地と残念石を利用した石碑の分布

それでは、「竜造寺町ゾーン」「玉造町ゾーン」の刻印石についてはどのように考えられるものでしょうか。徳川大坂城再築工事から200年近くを経た享和2年(1802)に作成された石の管理台帳には、現在の町名でみると上町や森ノ宮、玉造一帯に各大名の石置き場が多数あったことが記されています(※2・3)。「竜造寺町ゾーン」「玉造町ゾーン」の刻印石は、徳川大坂城再築工事に関わった大名の石置き場となっていたものが、明治時代以降も残置されていたと考えることができるのです。そして、それぞれの石材に刻まれた符号は石材の所属を示す刻印ということができます。

石碑に転用された石材

ところで、徳川大坂城再築に関る刻印石や石材は今でも大阪市内の色々な場所で見ることができます。

これらは、大坂城の石垣石材として運ばれてきたものの、未使用のまま放置されたものであることから「残念石」とか「残石」と呼ばれます。この言葉は広く認知さていますので、耳にされたことがあるのではないでしょうか。

残念石の中でもひときわ大きなものは、中央区島之内にある「贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑(ぞうじゅごい やすいどうとん やすいどうぼくきこうひ)」(写真2)や、北区中之島にある「木邨長門守重成表忠碑(きむらながとのかみ しげなりひょうちゅうひ)」(写真3)、西区安治川にある「贈正五位河村瑞賢紀功碑(ぞうしょうごい かわむらずいけんきこうひ)」などが有名です。記念碑として再利用されたこれらの石材には、石を割るために彫り込まれた「矢穴」(※4)が残り、大坂城の石垣石材と共通しています。

写真2.贈従五位安井道頓安井堂卜紀功碑

写真2.贈従五位安井道頓安井堂卜紀功碑

(中央区島之内2)

写真3.木邨長門守重成表忠碑

写真3.木邨長門守重成表忠碑

(北区中之島1)

写真4.建物の壁に利用された残念石

写真4.建物の壁に利用された残念石

(西区川口3)

これらの石碑以外にも、北区長柄東の「毛馬の残念石」、城東区鴫野東の八劒(やつるぎ)神社境内にある刻印石、中央区上町の広小路公園の刻印石、西区川口の建物の壁の一部に利用された巨大な石材(写真4)など、現在も市内各所で残念石を見ることができます。徳川大坂城再築工事の痕跡は、今も大阪市内に残り、刻印石広場の刻印石群はその一端を紹介したものといえます。

さて、徳川期大坂城の石垣石材は、九州をはじめ備讃瀬戸、東六甲、生駒など各地の石切丁場(※5)から切出され運ばれたことが分かっています。これらの石切丁場のうち、香川県小豆島の石切丁場が昭和47年(1972)に「大坂城石垣石切丁場跡」として国の史跡に指定されていましたが、2017年11月に兵庫県西宮市の「東六甲石丁場」が新たに「大坂城石垣石切丁場跡」として追加指定されることとなりました。これを記念して、2018年2月10日に大阪歴史博物館において『大坂城石垣と石切丁場シンポジウム』が開催されます。

世界に誇る徳川大坂城の石垣について様々な視点から検討を加えるシンポジウムです。ぜひ、多くの皆様に御参加いただきますよう、ご案内いたします。

※1.徳川時代大坂城外郭関連石垣遺構発掘調査団1977『徳川時代大坂城外郭関連石垣調査報告-日本経済新聞大阪本社新社屋建設に伴う旧大和川河口付近護岸石垣の調査-』

※2.大阪歴史博物館2013『特別展 天下の城下町 大坂と江戸』

※3.阪本俊2016「大坂城再築普請における石材運搬経路の一考察」『ヒストリア』258号

※4.矢穴(やあな):石を割るためのクサビを打ち込むために彫られた長方形の穴で、石の目に沿って一列に彫られる。時期によって、矢穴の幅が変化するといわれています。

※5.石切丁場(いしきりちょうば):丁場とは土木用語で工事現場をさし、石材を切出す石切り場を指しています。

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