太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム

魚市場以前の道修町

魚市場の下層から見つかった鋳物工房

写真1は道修町の調査で見つかった鋳物の鋳型です。何を作った鋳型か分かりますでしょうか。写真2はこの鋳型を基に復元製作した製品です。これを見ると、用途を思いつく方もいるのではないでしょうか。

先が尖り、写真に写っていない部分は平らで、内部は袋状になっています。この袋状の部分が木で作られた部分に差し込まれ、牛や馬に引かせて田起こしなどをする犂(すき※1)の先端にあたると考えられます(図2)。犂は筆者が子供の頃には農家には必ず備えられていた農具ですが、今では民俗資料館や博物館などでしか見ることはなくなりました。

写真1.犂先(すきさき)鋳型

写真1.犂先(すきさき)鋳型

写真2・図1:犂先鋳型の模式図と、復元製作された犂先

写真2・図1.犂先鋳型の模式図と、復元製作された犂先

図2.犂先の使用例

図2.犂先の使用例

(平井美典1992「草津市中畑遺跡出土の平安時代犂について」(財)滋賀県文化財保護協会 紀要第5号より

さて、この犂先を作った鋳物工房は、先月号で紹介した大坂冬ノ陣で焼け落ちた埋甕遺構の下層から見つかりました。鋳物が行なわれていた時期は秀吉存命の頃、慶長3年(1598)以前のことだと考えています。そう考える理由は、いくつかあります。一つは埋甕など大坂冬ノ陣で焼け落ちた遺構は、現在の町並みと建物の方向が一致していますが、今回紹介する鋳物工房は、現在の町割の方向と異なる方向を示していることです(図3)。

二つ目は、鋳造関係の遺物が現在の街区を越えて確認される点です。三つ目は火を扱う鋳物工房が町場の中心部で操業するとは考えにくい点です。これらの点から鋳物工房は船場の町割が施工される慶長3年以前に操業していたのではないかと考えているのです。

発見された遺構と遺物

発見された遺構は、鋳物を行なったと考えられる掘立柱建物(柱が地中に立てられる形式の建物)、その周辺で見つかった鉄地金を溶かす溶解炉、鋳型用の粘土が詰まった木箱を納めた穴などです(図3)。そこから、各種の鋳型や坩堝(るつぼ)、羽口(はぐち)、鉱滓(こうさい)といった鋳物に関る遺物(※2)が多数出土しました。

鋳型はいくつか種類がありますが、もっとも残りの良いのは最初に紹介した長さ約50㎝を測る馬蹄形をした鋳型です(写真1)。

鋳型の窪んだ部分に文字や記号が刻まれたものがあり、文字の周りに半球形の窪みが4箇所あります(図4)。犂先の鋳型の一部は建物の壁際に並べて置かれた状態で見つかっています。

製品となる鋳型(外型)とそれと組み合わされる平らな部分(外型)の二つの型で構成され、二つの外型の間に製品の厚みとなる部分の隙間を作り出すための中子が入れられます。鋳型と中子の隙間に流し込まれ固まった部分が製品となります(図1)。

図3.道修町1丁目で発見された豊臣期の鋳物工房跡

図3.道修町1丁目で発見された豊臣期の鋳物工房跡

建物の軸は北で5゜西に振っています。建物の規模はさらに広かった可能性があります。

図4.犂先鋳型実測図

図4.犂先鋳型実測図

円形の窪みは文字上方の2箇所だけに残っていますが、本来、文字の下方にも2箇所の窪みがあります。

図5・写真3:筒型の鋳型実測図と復元された製品

図5・写真3.筒型の鋳型実測図と復元された製品

中子の成形は、鋳型から型取りしたあと、製品となる部分を削り取って作られます(※3)。そのため、それぞれの鋳型に対応する中子が必要となります。犂先の鋳型に文字や記号を刻むのは、中子を型取りする時にこの文字が写し取られ、外型との対応が明らかになるためだと考えられます。また、鋳型の側面には竹のタガが巻かれ、鋳型とタガの間に木片が挟まれていました。地金を流し込む時に鋳型がずれるのを防ぐためのものと考えられます。

犂先と考えられる鋳型以外にも鍋・釜と考えられる鋳型や、製品を特定できていませんが円筒状の製品が出土しています(写真3・図5)。

なぜ道修町に鋳物屋があったのか

道修町で作られた製品は、農具である犂先が主要な製品であったように、町場の住人向けというより農村向けの製品が作られていたと考えられます。鋳物工房が発見された場所は大川や東横堀川に近く、大坂築城以前から水運に恵まれた場所だったと考えられます。後に魚市場が同じ場所におかれたのも水運に恵まれていたからに外なりません。地金となる鉄素材の集積や、製品を各地に搬送するためにも水運の便のよいこの地は鋳物職人達にとって格好の場所であったと考えられます。

それでは、鋳物職人達はなぜこの場所を離れることになったのでしょうか。発見された建物の中には、犂先の鋳型が壁際に並べるように置かれていました。また、再利用可能なほぼ完形の鋳型も捨てられていて、職人達の移転が慌しく行なわれたことが想像されます。

鋳物職人の移転の後、船場に町割が施工され、鋳物屋の跡地には、備前焼大甕を備えた魚市場が開かれます。魚商人は道修町通りや伏見町通りを挟んで集まりますが、慶長19年(1614)の大坂冬ノ陣によって被災します。大坂ノ陣後、ある地点では薬種や唐物を扱う町屋へと変化し、ある地点では引き続き魚市場として存続していました。元和8年(1622)に魚市場がこの地域から完全に移転すると、高麗橋通りや伏見町通りは豪商が店を構える繁華街となります。このように見てきますと、町場化に伴いまず火を扱う鋳物職人が移転し、その後、海魚を扱った魚商人が移転していくことになります。2月号から見てきました道修町1丁目周辺の変化はこの地点が城下町の縁辺部から中心地へ変貌を遂げていく姿を示していると考えられるのです。

※1:犂(すき)は牛・馬に曳かせ畑や田を耕す農具。鋤(すき)は人力で土を掘り起こす道具。

※2:鍋の耳部分の鋳型や鋳型を乾燥させる時に使用するサルとよばれる道具(支脚)、製品から切り離された湯口(溶けた地金を流し込む円錐形の窪み)部分の鉄地金、地金を溶かす溶解炉の送風口部分にあたる羽口(はぐち)、大量のスラグなど、鋳物に関る遺物が出土しています。

※3:伊藤幸司1987「道修町出土の鋳型とその製作実験」『葦火』第7号 (財)大阪市文化財協会

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