太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.35

大阪城の近代 〜兵隊と器〜

平成25年度から実施されています豊臣石垣公開事業に伴う発掘調査では、豊臣期石垣の発掘に至る過程で、近世から近代にかけての遺構や遺物が多数発見されています。一部は、これまでにも本コラムで紹介していますが、今回は軍に関わる近代の資料を公益財団法人大阪市博物館協会、大阪文化財研究所の小田木富慈美さんに紹介していただきます。

大阪城と大阪鎮台

明治維新の混乱の中にあった慶応4(1868)年1月、大阪城では本丸御殿を初めとする多くの建物が灰燼に帰してしまいます。焼け残りの施設と広大な敷地は新政府が接収して兵部省に属すと、軍用として大きく姿を変えていきます。

まず、明治4(1871)年には大阪鎮台が設けられます。鎮台とは陸軍の編成単位で、当初は仙台・東京・大阪・熊本に作られました。翌年には、本丸内に鎮台本営が新築されました。明治18(1885)年には、新たに紀州和歌山城から二の丸御殿が移築されて、鎮台本営となりました。「紀州御殿」と呼ばれたこの本営は、たいへん壮麗な建物で(写真1)、第二次大戦中まで迎賓館として利用されていましたが、残念ながら戦後の占領下において、焼失してしまいました。

写真1.「大阪府写真帖」より紀州御殿(大阪城天守閣所蔵)

写真1.「大阪府写真帖」より紀州御殿

(大阪城天守閣所蔵)

大阪鎮台は西日本最大の軍事機構の中枢部で、明治10(1877)年の西南の役では、軍事拠点として重要な役割を果たしました。

その際、大阪の兵隊は明治天皇直々に賞されるほど勇猛果敢に戦ったそうです。商人の子弟が多いため、大阪の兵隊は弱かったというのは、実は俗説だったのです。洋式の軍服に身を包んだ兵隊が威勢よく胸を張る姿を描いた錦絵からも、大阪の兵隊の風格がうかがえます(図1)

さて、明治21年(1888)には、大阪鎮台は陸軍第四師団に改編されてその名を失います。その後、昭和6年(1931)には大阪城天守閣の再建とともに、第四師団司令部が新築されました。なお、司令部の建物は平成13年(2001)まで大阪市立博物館として利用されていました。

図1.「鎮台光景」:明治時代(大阪城天守閣所蔵 錦絵「坂府新名所」より)

図1.「鎮台光景」:明治時代

(大阪城天守閣所蔵 錦絵「坂府新名所」より)

発掘調査の成果

一昨年と昨年に旧大阪市立博物館の北で行われた発掘調査では、現存する金蔵の東で、建物が3棟確認されました(図2)。

最も西には、現金蔵の北に明治23年(1890)まであり、配水池の建設に伴い移築され、さらに昭和4年(1929)に高槻へ移築された江戸時代の旧金蔵跡がありました。その東では建物1・2が並んで見つかりました。建物1は、明治18年測量の『大阪実測図』に見え、大阪鎮台の施設であった可能性があります。建物2は、建物1と方位が同じで構造が似ており、建物1に続いて建てられたのでしょう。また、建物周辺のごみを捨てた2つの穴(土壙1・2)からは、明治時代前葉の遺物が大量に見つかりました。写真2はそのごく一部です。

図2.調査で見つかった遺構(明治18年測量『大阪実測図』に加筆)

図2.調査で見つかった遺構

(明治18年測量『大阪実測図』に加筆)

写真2.ごみ捨て穴から見つかった品

写真2.ごみ捨て穴から見つかった品

 

軍隊で使われた器たち

出土品で最も多かったのは、飯茶碗や大小の碗・皿、土瓶、湯呑碗など陶磁器の食器、ガラスの器や酒瓶で、同じ器を数十個以上の単位で揃えていたようです。

次いで文房具や道具類が多く、墨書・朱書用の大小の硯、筆立、水滴のほか、用途不明の蓋付容器も多数ありました。また、骨製の歯ブラシやボタン、薬瓶と思われる小瓶も見つかっています。

このことから、近くに大勢が飲食・飲酒をし、文書を作成する施設があったこと、なかには寝泊まりし、医療を受けた人も少なからずいたことが推測されました。

これらの中で特に注目されたのは、明治時代前葉の生産とみられる陶器に書かれた「本」・「本営」・「医」・「會計部」・「糾問ヵ」などのたくさんの墨書です(写真3)。「本」・「本営」は先の大阪鎮台や鎮台組織内の本営や本部を指すと思われました。

写真3.墨書のある陶器

写真3.墨書のある陶器

また、調べるうちに「大阪鎮台會計部」の名も記録にありました。「糾問ヵ」は軍人を裁判する「糾問所」を記したものかもしれません。ほかには鎮台組織の一つ「第四軍管第八師管後備軍本部用」と書かれた器もありました。後備軍とは常備軍や予備軍を終えたのち所属する軍でした。「医」は不明ですが、近所にあった鎮台病院など医療施設を指すのかもしれません。

以上のことから、ごみ捨て穴の出土品は、大阪鎮台で使った品が第四師団への改編や施設の移動などで不要となり、捨てられたものと推測されました。さらに、鎮台の初期に兵学校の一部に使われていた大阪城多聞櫓を解体修理する際、出土品とそっくりな品が発見されていたことも分かりました。

さて、珍しい品には「明治五申正月・・」と書かれた盃があります(写真4)。鎮台ができて最初の正月を祝う品だったのでしょうか。

写真4.「明治五申正月・・」と書かれた盃(高約3センチ)

写真4.「明治五申正月・・」と書かれた盃

(高約3センチ)

また、軍隊に似つかわしくない品には「PAFUMERIE CENTRALE PARIS」の陽刻がなされたフランスの香水瓶と思われるガラス瓶があります(写真5)。なぜ、ここに捨てられたのでしょう?もたらした人と使った人の間にあったいきさつを想像するだけでも興味深い品です。

出土総量が遺物収納用のコンテナバットで40箱以上にもなる鎮台関連の品は、当初でも数千人規模だった鎮台の兵数からみれば、器物全体のごく一部にすぎないのでしょう。

見つかった品々は、明治政府が維新後まず踏み出した、富国強兵への第一歩を示す資料にほかなりません。軍隊組織を維持するためには、器だけをとっても驚くほどの量と種類、そして莫大な経費が必要であることを再認識させられました。

図1・写真1は大阪城天守閣2004『特別展 大阪城の近代史』図録より転載しました。また、資料については、大阪城天守閣 宮本裕次・金沢大学 能川泰治様からご教示を頂きました。記して感謝いたします。

なお、今回紹介した資料は大阪歴史博物館の特集展示「新発見!なにわの考古学2016」として平成28年11月16日から12月26日まで(火曜日休館)公開されます。是非ご覧下さい。

写真5.フランス製香水瓶か(現存高約14センチ)

写真5.フランス製香水瓶か

(現存高約14センチ)

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