太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.34

豊臣期上町の町割と下水道

先月号では「太閤(背割)下水」について考えました。そのなかで豊臣期の上町地区の下水道は、徳川期の下水道に引き継がれていないのではないかということを述べました。今月はそのように考えるいくつかの事例を紹介したいと思います。

豊臣期の大坂城下町については建設当初から、船場や天満などにも町屋が広がっているイメージをもっておられる方も多いのではないでしょうか。

筆者も文禄3年(1594)に惣構堀が掘られた後は、惣構内に広く武家屋敷や町屋が建ち並ぶイメージをもっていました。しかし、実際には豊臣期の城下町は段階的に整備されていったことが明らかにされています。

秀吉の城下町構想を研究した内田九州男氏によれば、秀吉は当初は大坂と四天王寺・堺を結ぶ南北に長い城下町を計画していたといわれています(※1)。

その痕跡が明治21年(1888)陸地測量部発行の『大阪実測図』に残されています。谷町筋と上町筋の間に2筋の道があり、その道を挟んで奥行き20間(約40m)の屋敷地が短冊のように南北に並んでいます。

北を「北平野町」といい、南は「南平野町」といいます。また、この町屋を東西から挟むように寺町(図2左、斜線部分)が配置されています。秀吉は大坂城の築城と同時に町屋と寺町を計画的に配置していたのです。

図1.内田九州男氏による豊臣期大坂城と城下町の復元

図1.内田九州男氏による豊臣期大坂城と城下町の復元

(内田九州男1989「豊臣秀吉の大坂建設」『よみがえる中世2本願寺から天下一へ 大坂』より)

図2.平野町の地割推定図と『大阪実測図』

図2.平野町の地割推定図と『大阪実測図』

左:内田九州男1989「豊臣秀吉の大坂建設」より・右:内務省陸地測量部1888『大阪実測図』より

秀吉の城下町構想は慶長元年(1596)の伏見大地震などによって見直され、町屋の開発は上町地域や船場の開発に移行したとされています。また、文禄3年(1594)に始まる惣構堀掘削後の慶長3・4年(1598・99)には惣構内に三ノ丸を建設し、そこに住んでいた住民を立ち退かせ、新たな居住地として船場を開発します。

このような城下町の形成過程を1枚の図に示したのが図1です。内田氏が明らかにした豊臣期の城下町変遷の理解は、三ノ丸工事に対応すると考えられる大規模な盛土が発掘調査でも確認されるなど、遺跡の理解とも合致し、十分説得力があるものでした。そして、今後も大枠の理解は変わることはないと考えられます。

その後、1980年代から実施されてきた発掘調査成果の検討をもとに、松尾信裕氏が城下町の変遷について新しい見解を提示しました(※2)。まず、秀吉の大坂築城の初期には「平野町」の城下町のほかに、大川沿岸にあった中世以来の港湾集落「渡辺」と大坂城を結んだ「上町」城下町があったとされたのです。

ところで、この段階では文禄3年(1594)に掘られた東横堀川は開削されておらず、町屋は後の船場地域まで続くように想定されています。同様に、四天王寺北の平野町および周辺の寺町も南惣構の空堀を越えてさらに北に延びていた(平野町の北、破線部分)ことが想定されています(図3)。

さて、文禄3年の惣構堀の掘削によって大坂城は約2㎞四方が堀で囲い込まれることになります。しかし、この段階でも惣構内の広範囲に町屋が広がったわけではないようです。この段階では大坂城築城の初期にあった島町通までの町屋が大手通まで広がったことが想定されています。土佐堀通から大手通までの町割は、豊臣期の前半段階に形成され、現在まで踏襲されている可能性が高いと考えられているのです(図4)。

図3.松尾信裕氏復元の豊臣初期大坂城下町

図3.松尾信裕氏復元の豊臣初期大坂城下町

豆谷浩之・南秀雄2015「豊臣時代の大坂城下町」『秀吉と大坂 城と城下町』和泉書院より引用

図4.上町地区北部の豊臣期町割と元和期の伏見町人再開発地

図4.上町地区北部の豊臣期町割と元和期の伏見町人再開発地

松尾信裕2003「豊臣氏大坂城惣構内の町割」(財)大阪市文化財協会『大坂城跡』Ⅶより引用、加筆

一方、大手通以南になると豊臣期の遺構と現在の町割との関係が不明瞭になります。現存する町割と発見される遺構が大きくずれているのです。

例えば図5は、内本町1丁目から2丁目にかけて見つかった豊臣期の石垣と石組み溝の調査地点を示しています。いずれも内本町通の北側街区にあり、南面する石垣とそれに接して築かれた石組み溝が見つかっています(写真1、図4-調査地1)。

石垣の北側が屋敷地、石垣南側の溝は道路の側溝と考えられています。この石組み溝は夏ノ陣と考えられる火災を受けており、豊臣期後半の遺構です。この遺構が道路の側溝だとすると、現在の本町通と方向が大きくずれています。

また、石垣の連続は内本町2丁目のOS89-19でも確認されていますが、現在の敷地の方向とも、内本町1丁目で確認された石垣の方向とも大きくずれています(図5)。

そして、その原因として提示されているのが、元和5年(1619)に廃城となった伏見城の町人の居住地が大手通以南の地域に分布することです。豊臣期の町割と現在の町割が一致しない地域と徳川期に町割が行なわれたことが想定される地域が一致しているのです(図4)。

ここで、背割下水の問題に立ち戻ります。現存する太閤(背割)下水は、現在の町境の位置にありますので、豊臣期の町割と現在の町割が一致しない地点では太閤下水が豊臣期まで遡らないことは明らかです。

では、豊臣期の町割と現在の町割が一致すると考えられる部分ではどうでしょうか。この地域では町境の位置に排水の溝があった可能性は否定できません。

ただ、確認される溝遺構は町境の位置よりも道路と屋敷地の境にしっかりとした石組み溝が築かれる例(写真2、図4-調査地2)が顕著です。

このことから上町地区における豊臣期の排水施設の主体は、道路側溝であった可能性が大きいのではないかと思われるのです。

しかし、上町地区の豊臣から徳川期の町割の問題については武家屋敷や大名屋敷と町屋の関連など、解決しなければならない点は少なくありません。また、実際に遺構が引き継がれるかどうかということよりも、背割下水のシステムが豊臣期初期の段階からあったのかということが重要だろうと考えます。それらの問題については改めて考えたいと思います。

写真1.内本町1丁目(OS92-22、図4-調査地1地点)で見つかった豊臣期の石垣と溝(南から)

写真1.内本町1丁目(OS92-22、図4-調査地1地点)で見つかった豊臣期の石垣と溝(南から)

石垣の奥が屋敷地と考えられている。屋敷地部分の遺構は豊臣期前半の遺構。石垣の方向と遺構の方位が変化している。

図5.内本町で発見される豊臣期石垣の調査地点と遺構の方向

図5.内本町で発見される豊臣期石垣の調査地点と遺構の方向

(財)大阪市文化財協会2003『大坂城跡』Ⅶより引用、加筆

写真2.内淡路町3丁目(OS93-47、図4-調査地2地点)発見の石垣と溝(西から)

写真2.内淡路町3丁目(OS93-47、図4-調査地2地点)発見の石垣と溝(西から)

大阪市文化財協会2003『大坂城跡』Ⅶより、石垣の左側が屋敷地、右側が道路

※1:内田九州男1985「城下町大坂」『日本名城集成 大坂城』小学館
   内田九州男1989「豊臣秀吉の大坂建設」『よみがえる中世2本願寺から天下一へ 大坂』)

※2:松尾信裕2003「豊臣氏大坂城惣構内の町割」(財)大阪市文化財協会『大坂城跡』Ⅶ
   松尾信裕2008「豊臣期大坂城惣構内の景観」『大阪城天守閣紀要』第36号大阪城天守閣
   豆谷浩之・南秀雄2015「豊臣時代の大坂城下町」『秀吉と大坂 城と城下町』

大阪市立大学豊臣期大坂研究会編 大澤研一・仁木宏・松尾信裕監修 和泉書院

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