太閤秀吉が築いた初代大坂城の石垣を発掘・公開への取り組みと募金案内。

豊臣石垣コラム Vol.10

防空壕を掘って見つかった地下石垣

桜門土橋の東側の空堀に、第二次大戦中に掘られた防空壕の出入口があるのをご存知でしょうか。防空壕の出入口は本丸側と二ノ丸側の2か所にありましたが、本丸側の穴は昭和30年に石によって塞がれ、二ノ丸側の出入口は今も開口しています。この防空壕のことを元天守閣館長の渡辺武さんが、『上方芸能』という雑誌に詳しく書かれています。戦時中の防空壕掘削と戦後の埋戻しに関わった方から聞き取りを行い、それを基に渡辺さんが調べたことをまとめられたもので、戦前の大阪城の姿を知る上で貴重な資料です。

本丸側の防空壕は旧第四師団司令部庁舎(防空壕掘削当時は中部軍管区司令部)にも出入口が設けられているほか、それ以外にも何か所も出入り口があったようです(図1)。防空壕の詳細については渡辺さんの報告を見ていただくこととし、ここでは、この防空壕を掘った時に地下の石垣を掘り当てていたことを紹介したいと思います。

本丸側の防空壕は空堀から貯水池に向かってのびる南北の幹線と支線がありました。空堀底に坑口を定め、幅、高さとも約2mを測る正方形で、排水のために北が若干高くなるように掘り進んだそうです。地面から壕までは約15mの深さがあったことが断面図からわかります。入口部分は石垣の石を抜いて穴をあけるわけですから、大変な作業だったことが想像されます。爆薬まで使って穴を開けたそうで、よくぞ石垣が崩れなかったものだと思います。

この空堀底の坑口から北へ124m掘り進んだ所で「地下石垣」につきあたり、栗石とヘドロ状の泥が噴出してきて、それ以上掘り進められなかったそうです。その場に居合わせた方からの聞き取りでは、古い石垣の底のような感じだったと書かれています。空堀から124m北の位置を現在の地図で測ってみますと、『上方芸能』に書かれた石垣の位置(図1の「石垣遺構」とされている位置)より少し南側になりそうです。

図1.防空壕の配置と発見された石垣の位置、防空壕出入口断面推定図

図1.防空壕の配置と発見された石垣の位置、防空壕出入口断面推定図

(渡辺武「現代版〝大阪城の抜け穴〟」『上方芸能』41号、1975に加筆)
幹線となる南北の防空壕は空堀から配水池まで掘る予定だったそうですが、石垣に遭遇したため、石垣の手前で西に折れ、そこから地上に向かって掘り進んだそうです。

写真1.本丸側の防空壕出入口跡(図1‐①)

写真1.本丸側の防空壕出入口跡(図1- ①)

閉塞した石材は渡辺氏の報告から推定

写真2.ニノ丸側の防空壕出入口(図1‐②)

写真2.ニノ丸側の防空壕出入口(図1‐ ②)

この時見つかった「石垣」は、これまでコラムでも紹介してきましたように、地下に眠る豊臣大坂城の石垣だと考えられますが、豊臣大坂城のどの位置に当たるのでしょうか。宮上茂隆氏の重ね合わせ図を参考に位置を確認してみますと、内堀が本丸内に深く入り込んで、中ノ段が狭くなる辺りになりそうです(図2)。この付近の中ノ段の地面は、現在の地面の下約7mにあることが明らかとなっていますので、防空壕を掘ったとされる地下15mの深さで石垣に当たったとすると、中ノ段と下ノ段を繋ぐ石垣か、あるいはさらに深い位置にある石垣に遭遇した可能性があります。確かなことは詳しい検討を経なければなりませんが、昭和34年の学術調査以前に地下石垣の存在が人知れず確認されていたのです。

大阪城天守閣と大阪城公園は市民の寄付によって整備され、昭和6(1931)年11月7日から市民に公開されました。しかし、戦況が深刻化する昭和17年9月には天守閣が閉鎖され、城内への立ち入りも禁止されてしまいます。防空壕が掘られたのはその後の昭和19〜20(1944〜45)年のことです。防空壕の痕跡をうかがうことができる資料は今では空堀に開口した防空壕出入口跡や、旧師団司令部庁舎の塗り込められた出入口痕くらいしかありません。しかし、石垣に穴をあけるために爆薬を使い、地下15mもの深さに防空壕を掘るという、今では考えも及ばないことが行われていた時代があったということも、長い大阪城の歴史の一コマなのです。

図2.防空壕の掘削により発見された石垣の推定位置

図2.防空壕の掘削により発見された石垣の推定位置(★印

宮上茂隆「秀吉築造大坂城本丸の復元」『季刊大林』No.16、1983に加筆

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